コシヒカリについて


1「コシヒカリの誕生」

農林1号、農林22号、コシヒカリ

1)交配(昭和19年)

【コシヒカリの親は、農林1号(父)と農林22号(母)】
 いもち病に強く早生で良質な品種を作ることを目的に、農林1号(早生、短稈、良質、多収)と農林22号(いもち病に強い)の交配が新潟県農事試験場で行なわれました。
 その2年後に、この交配から出てきた65株の中から、20株の穂が福井県農業試験場へ送られてきました。

2)育種そして全国での試作(昭和28年)

【たくさんの可能性の中から後のコシヒカリになる「越南17号」が選抜されました】
 福井県農業試験場では、石墨慶一郎氏が中心となって新潟から送られてきた稲を材料に選抜と固定を繰り返しました。育種家に最も要求される技術はこの選抜技術です。
 後にコシヒカリになるイネは、「背が高く倒れやすい」「いもち病」に弱いという大きな欠点があり、選抜の中で捨てられてもよいイネでした。しかし、「熟色」と「米質」が良いことから捨てられずに、「越南17号」の系統名で全国22県に配布され試作されることになりました。

3)コシヒカリの命名(昭和31年)

【コシヒカリの名前がつきました。この時が品種の誕生となります】
 全国での試作の結果、昭和31年に新潟県が多肥栽培に歯止めをかけることを狙いに奨励品種として採用し、また、千葉県でも採用されることになったことから、福井県が農林水産省に新品種命名登録申請を行い「越南17号」は、越の国(現在の福井県から新潟県)に光り輝くことを願って、「コシヒカリ」と命名されました。

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2 コシヒカリの父 石墨 慶一郎 氏

コシヒカリの里 石碑

コシヒカリの父 石墨 慶一郎 氏

大正10年7月17日生まれ(現 坂井市丸岡町舟寄)
平成13年5月6日死去(享年79歳)

 石墨氏は昭和21年から県立農事試験場(現農業試験場)に勤務し、翌22年から水稲育種を担当しました。福井地震の液状化現象となった試験田から育種材料を助け出し、常に「田んぼの中の視点」を持ち続け、全国1位の面積を記録した「ホウネンワセ」や「コシヒカリ」の他、多くの品種を育成しました。

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